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秋子めも

秋子と書いてしゅうこと読みます。日記だったり小学生みたいな作文だったり徒然と書き綴る

震災のこと

タイムリーな話だ。やはり書かずにはいらない。
私は現在関東県に住んでいるが地元が関東と言えども東北寄りなので(この時点でかなり特定できるであろうがあえて伏せる)、東日本大震災のとき震度6を体験した。
何度人に話してもゾッとするのだが、震災のあったとき、浪人して大学の合格が発表された後だった。交通の都合上、東北の某県の予備校に1年通っており定期の切れるギリギリまで合格の決まった友人達と遊び呆けていた。そう、定期の切れたのが3/10。もしこれが3/11だったら私は東北で震災を迎えていたであろう。整わない交通のせいで実家にもしばらく帰れなかったであろう。あれを家族と離れた地、しかも沿岸では甚大な被害のある県で迎えたとなったら相当なパニックに陥ることは間違いない。
しかし奇跡的に定期は3/10で切れていた。3.11当日私は定期が切れていたこともあり車を運転して自分の母校へ合格の報告をしに行っていた。自宅からは20分前後といったところか。
そして地震の起こる少し前、母校を後にし帰路へ。そして地震の起こる数秒前、自宅への最短ルートとなる細い田圃道を空腹のためコンビニに寄るルートをとろうと曲がらない判断を下した。これも曲がっていたらと思うとゾッとする。あの揺れでハンドルを取られていたら田圃に転倒していたであろうからだ。
曲がらず10mほど先の交差点で停止した時に地震は起きた。最初はガタガタと車が揺れついにオンボロ車が故障したか?と思ったがにしてもおかしい。目の前では対向車のトラックが、信号が、電線が、電柱が、揺れている。驚き焦るも信号が変わりとりあえず曲がってみる。そして通りの少ない中、たまたますれ違った車同様停止し、エンジンを切り、車から離れた。同じように車から出てきた御夫婦と言葉を交え、ドキドキする中、事の大きさを把握できずコンビニへと向かった。そこで大きな余震にあう。信号がついておらずおかしいな、とおもいながらコンビニへ入るも今思うと当然だが灯りもつかずレジも使えない為ぴったり払える分のホットスナックをひとつ貰い自宅へ。家へ入ると空気清浄機は落下しているしカラーボックスの上に鎮座していた小さな茶箪笥もひっくり返っている。仏壇の上にあった父の遺影も、位牌もそなえてあったものも倒れて落ちている。電気もつかない。そんな家の中にひとりでいるのが恐ろしくなり携帯と毛布、そしてワンセグ機能のついたウォークマンを手に車へ戻った。母に連絡するも繋がらない。ちょうど修学旅行で海外へと行っていた弟は無事間違いないがメールを入れた。そして私同様家にいるのが怖くなった隣の方と車の外へ出てお話し、思い出したようにワンセグ機能のついたウォークマンでテレビをつけた。そこには津波の映像がうつっていてゾッとした。沿岸ではないし沿岸に勤めている訳では無いけれど母は無事かと不安になり何度も電話をかけた。しかし繋がらなかった。
1度電気は復旧したのか確認すべく1度家へ戻ってみたがつかない為車に戻る。漸く母が無事だとわかったのは母が帰宅した夜8時前だった。
地震からおよそ5時間少し。本当に心細いし不安で仕方が無かった。その日に限って携帯電話を自宅に忘れていった為連絡がつかなかった。母も母で私の無事が確認出来て安心したようだった。電気もつかないし今夜は車で過ごそうかとなったがずっと車にいて明かりもなく真っ暗な状態で不安で仕方なかった私は母方の祖母の家はどうかと提案した。近くだから電気とかつかないのも変わらないよきっととごねる母を押し切ってそちらに住む叔父に連絡を取らせた。すると車で20分も離れていない距離なのにそちらは電気もつくし揺れたけどかわりはないと言う為その日はそちらにお世話になることにした。そして祖母の家で改めてテレビをみて事の大きさを思い知った。
以後連日放送される津波の映像に気が狂いそうでテレビをつけずに生活していた。入学式もなくなりぼやっとした状態で大学生活を迎え、ボランティアの文字も見かけたが目を背け続けた。

それから1年が過ぎ、大学の2・3年どちらもで履修しなくてはならない選択必修で被災地へボランティアに行く授業に配属された。(四つのうち三つを選びあとは先生方が人数をみながら配属を決めたのであまり自分の意志とは言えない)
アルバイトに精を出していたため時間が合わず前期中は1度も被災地に足を踏み入れることは無かったが、あくまで授業。夏休みのこれに参加しないと単位やらないと通達されたこともあり漸く重い腰を嫌々上げた。
してきたボランティアはなんてことはない、現地の団体が施設を借りて開催する支援物資配布がメインのイベントで他の団体が出しているものの支援や親子で来て子どもが退屈しないように子どもたち向けにゲームを一緒にしたりして保護者が安心して支援物資の供給を受けたりできるようにするものだった。
その日から上手いことは言えないが少し視界が変わったように思う。そのイベント以降積極的に授業でのボランティア遠征に参加するようになった。
学年が変わり、再び私はその授業を選択した。今度は自身の希望による選択だった。
およそ2年間で覚えてられない程度には足を運んだと思う。
ただそれだけだ。足を運んで言われた決められた事をしてくるだけ。ただ、向こうの人との触れ合いや言葉でまた来なくてはと思わされた。



そして先日の熊本の震災。
私はまた恐ろしくてテレビ等をつけていない。
けど今回は、ガレキの撤去でも物資の仕分けでも何でもいい、今現在の現地の様をこの目で焼き付けなくてはならないのではないかと強く感じている。単身乗り込むような行動力も持ち合わせていない。しかし先の授業でお世話になった先生に確認し、ボランティアを募ることがあるなら自ら志望して行きたいと、その程度のことは思っている。少しでも復興の足しになるのならば。

支援物資は廃品回収じゃないんだよとだけは言いたい。
支援でよく千羽鶴や寄せ書きを送られているのを見かけた。しかし今必要なのはそれではない。そういったソフト面はある程度ハード面が整ってからの話である。ソフト面での支援は今は全く必要ないわけではない。が、これからもう3ヶ月は先から本格的に必要になる、という感じだろう。
まずは義援金、寄付だけでも。
下手に動いて混乱や負担を招くくらいならば。

それでなくとも不便な避難所生活、更に女性の生理や授乳、障害を抱えた家族を連れてでの避難所生活は相当な苦労になるであろう。負けずに現在の状況と戦って欲しいと強く思います。ボランティア受け入れ態勢が整ったら実際に手を握り励ましに行くからと、今はどうにか耐え忍んでと遠く離れた関東の地から祈るばかりです。



ちなみに激しくすごくとてつもない余談だが初めて被災地へ足を運んだ日、一泊二日だったのだが初日にスマホを落とし画面をバキバキに使えないものにしてしまった。2日目帰ってきた時間は夜中。修理に行けず。そしてタイミング悪いことに帰ってきた翌日から4泊5日の集中講義で自由な時間が無く1週間携帯を使えなかった。